ここに祖父母の家があった
一年で一番のビックイベント
田舎暮らしだ
まだ東北新幹線が走っていない頃の話だが上野から寝台列車で八時間はかかったと記憶している。
夜中に乗って朝方盛岡に到着しそれから在来線に乗り変え一時間ほど。
あまりに遠いい旅だった。
当時の二戸駅は北福岡駅という名前だった。冬になると駅舎の中でストーブが炊かれ皆で火に当たり列車を待った。
そこで列車を待つわけだが私の家族、親戚、今思うに列車を待つ皆が静かだった。寒いのもあるがおそらく別れを惜しんでいたからだったと思う。
そんな祖母がリンゴの箱を背負い私達の住む東京に来た事があった。
今では有り得ないかもしれないがそのような光景は珍しくなかった。
持てるだけの物を持って列車に乗り宅急便など使わないのだ。
というよりヤマトや佐川のような宅急便事態がなかったのかもしれない。
そんな祖母と東京観光へ出かけ二子玉川遊園地に行ったのは忘れられない思い出だ。
当時はウルトラマン絶頂期だった為、至るところでヒーロー物のショーが催されていた。
しかし祖母はつまらなかったと思う。
何故なら戦争を経験している人間だから皇居や戦後の復興のシンボル東京タワーに行きたかったはずだ。
大人になった今、当時の心境を色々聞きたいのだがもうこの世にいない。
そんな事もあり数年前にリリースした
「東京過去未来」
外国人がたくさん遊びに来る東京の街をもし祖母が見たら東北訛りで「おっかねぇ」ってきっと言いそうだ。
祖母が岩手に帰る日の事は全く覚えていない。
遊園地で過ごした時間意外思い出せない。
たった1人で上野へ向かい寝台列車に乗り込みどんな想いで東京の夜景を後にしたのだろう。
ちなみに東京駅が東京の玄関になったのはかなり後である。
それまでは上野でした。
東京駅を見ると交通が不便だった頃を思い出してしまいます。
あの当時に東京駅から東北新幹線が走っていれば気軽に祖母に会いに行けたなと。
そんな事を考えながら生まれた
「愛・東京駅」
時が経つのが早すぎる。
東日本大震災から10年以上が経過したけど毎年この日の後に思い出すのは祖母と過ごした優しさに包まれた時間だ。